最近さぁ、自分のことを単なる数字や前例として把握されることが凄く嫌だなぁと感じる。

というのは、教習に通ってて、例えば「毎年交通事故で○人が死亡、○人が負傷しています、気をつけましょう」と言われる。こんな事故のパターンがありました、あんな事故のパターンがありました、言われる。

それを聞いたボク達は、単に「あぁ、そうならないように気をつけよう」としか思わない。

どういう人が怪我をしたとか、それによってその人や周りの人がどういう人生を歩んだか、それによってどれだけのものが失われたか、という具体的事情は捨象されてるわけ。そんなもんいちいち説明してられないっていうのは当然といえば当然なんだけどさ、仮にボクが今日何かの事故で死んでも、それは単なる数字や前例として把握されるだけなんかなぁと思うと空しくなる。


ボクが受けた国家試験にしても、例えば「名前の書き忘れで不合格になった人が過去に居ますから気をつけましょう」、「勉強の仕方が悪くて落ちた人が居るので、その人のような勉強方法を採るのはやめましょう」と言われる。

それを聞いたボク達は、単に「あぁ、そうならないように気をつけよう」としか思わない。

けれど、それで不合格になった人にとっては一大事なわけで、「あぁ気をつけよう」では済まされないんだよね。

こういう例っていくらでもあるんだよね。フグを食べて毒で死んだ人が居るから、今のボク達はフグの調理には気をつける。そういう風に、この社会のルールや注意事項っていうのは、誰かが過去に犠牲になってるからこそ生み出されたものが多いと思うんだよね。医療技術でも同じだろうね。
誰かが犠牲になってくれたことで、社会は様々なことをそこから学び取ることができるけど、犠牲になった人は数字や前例でしかないんだよね。

ボクも、単なる数字や前例として把握される日が来るのかなぁ。なんか、空しいよなぁ…。